御由緒

 第九十代亀山天皇の弘長元年(1261年)長門領主厚東武朝の弟物部武村の命により野村大炊介、野村佐ェ門尉の二人を派遣し、 豊前国(大分県)宇佐八幡宮の御分霊を勧請し社を造営、同年八月二十二日本殿に奉斎し上二人を神職として奉仕せしめ社領三十石を献じ領内の大社として年中祭事を厳修する。

 後の大内氏の時代に及び崇敬益々篤く、社領も従前の通り献上し、大内義隆に至っては、天文九年(1540年)楼門一宇を奉建し、「八幡宮」の三字を自書して奉額する。毛利氏によって長門を領するに及び、国主の祈願社として祭事崇厳を極め三田尻(山口県防府市)、小郡、高泊(山口県山陽小野田市)の三開作工事成就の祈願社となる。明治六年旧郷社に列せられ、戦後も一村一社のモデル的形態を存続し、氏子崇敬者はもとより近郷近在より多数の参拝者がある。